2016年2月 9日 (火)

架空・お悩み相談室124『甘いものをついつい食べ過ぎてしまいます』

【お悩み】

甘いものをついつい食べ過ぎてしまいます。どうしたら我慢できますか?(宮城県/浅田マサコさんのお悩み)

【お答え】

食べ物だけではないのですが、どういうわけか人間というのは、やることなすことがばらばらで、いつでも、ないものをほしがります。食べ物が何もないときに、食べ物を欲しがるのは理の当然として、食べ物があれば満足するかといえば、そうではないのです。芋を食うと穀物が食べたくなるし、穀物が十分なら魚に餓えます。豊漁なら肉が恋しいし、イノシシが捕れれば貝が懐かしく、貝がわんさかあれば豆腐がほしくなり、豆腐を作りすぎるとこんにゃくが食べたく、こんにゃくができれば青菜が足りません。そうして人間には、いつもなにかが足りませんでした。そのために人間は、なんでもかんでもたっぷりあって、好きな時に何でも好きなものを選べる世の中にしたくて、もうれつにがんばってきました。そして現在、世界を見渡せばおわかりのように、一部地域、一部の人々に限ってではありますが、そのようなシステムがなんと現実に展開しています。

人類の夢みたパラダイスの実現です!
万歳!

ところがどっこい、何もかもがたっぷりあり、なんでも食べられる世の中は、人間にとって決してパラダイスでなかったことは、あなたご自身がよくご存じのとおり。なんでもあって何でも食べられる世の中になると人間はどうするかというと、何を食べても食べすぎだし、何を食べても何かが不足している状態に着目することにしたわけです。おかげで豊穣な環境にいきる人々は、食生活のあらゆる場面で常に罪悪感を覚えることになりました。

米を食べれば炭水化物の取りすぎだし、肉を食えば食物繊維が足りません。生野菜は体を冷やすし、温野菜には酵素がありません。甘いものは体に悪いし、塩分は体に悪いし、アルコールは体に悪いし、糖質は体に悪いし、乳製品は体に悪いし、スナック類は体に悪いし、ええと、要するになんでもたいていは身体に悪いのです。そう思っておけばだいたい間違いはありません。人間は、何を食べても不安からのがれられず、不満を抱き続け、幸せにならないようにできているかのように見えます。いったいこれは、なぜなのでしょう。

この問題については多くの研究者が長年の研究を積み重ねています。なかでも著しい研究の成果があがっているのは、ごぞんじ飽食の国、食品の自給率の低さ、廃棄率の高さにおいて世界のトップクラスを走る日本においてです。注目すべき論文はいくつもありますが、なかでも私たち一般人にも読みやすく、また教わるところが大きいのは、まさにミヤギ県の産んだ食文化の研究者、人類学の権威、ジュンヤ・ミハシ教授の論文「シアワセハジブンガキメラレナイ Why can’t we choose what makes us happy?」です。

ミハシ教授によれば、人間は意志の生き物です。有史以前から綿綿と続く進化の歴史の中で、人間が気の遠くなるような長きにわたり、一心に追い求めてきたのは、「みずからの意志によって行動すること」すなわち、「選択の自由」でありました。ほかの生き物をご覧ください。動物、植物、微生物に至るあらゆる野生の生き物の中で、その装い、生活パターン、食行動、パートナー探しから子育て、そして死に至るまでのあらゆる局面で、選択の自由を有しているものがどれほどあるでしょうか? ほとんどすべての生き物が、あるがまま、育ったままの姿に自ら手を加えることなど考えも及ばず、非常に単調な、多くの場合ほぼ単一と言ってもいいほどに偏った食生活をし、時期に従って生殖行動をとり、決まったパターンの子育てをして一生を終えていきます。

ところが人間の姿はいかがですか。どの時代、どの民族、どの地域であれ、人間があるがまま、育ったままの姿で生きることはありません。毛皮も、硬い甲羅ももたない人間の体は非常に柔らかく傷つきやすく、なんらかの衣服なり、装備なりを身につけなければ皮膚を守ることもできません。一方で頭髪は異様に長く伸びるため、こちらはこちらで切るなり編むなり縛るなり、なんらかの工夫をしなくては日々の生活すらおぼつきません。なんと奇妙な、面倒くさい生き物なのでしょう! 

食生活はどうでしょう。ある種のチョウの幼虫は、ミカンの葉っぱしか食べません。別のチョウは芋、また別のチョウはスミレの葉っぱしか食べられません。かれらに選択の自由はありません。しかし人間は、ほとんどどんなものでも食べることができます。猛毒のフグですら、人間は食べます。

いろんな生き物と比べて考えてみてください。あらゆる面において、人間は驚くべき多様性を示す生き物です。結論を申しますと、人間は、ほとんど、どうやったって生きていける生き物なのです。

なぜか。

これこそが、人間が選択の自由を追い求め、独自の進化を遂げたことの、意味であり、成果なのです。ひとつの種族が世界のあらゆるところでこれだけ繁茂しているのは、この多様性、雑食性、なんでもありのこの習性のたまものです。

人間は選択の自由を追い求めました。一度した選択に安住することなく、あくなき探求を続けました。まだ足りない、もっと欲しい、もっといろんなものが食べてみたい、これには飽きた、新しいものが食べたい、懐かしいものがまた食べたい、これじゃない、ここにないものがほしい……そうやって、あくなき探求を続けたからこそ、ご覧ください、人間はこのように世界中に散らばり、その数を増やし続けてきたのです。人間がそのように世界に繁茂したのは、選択の自由を愛し、追い求める一方で、自らの選択の結果を疑い、忌み嫌い、よりよい暮らしを求め、満足しない心のなせるわざなのです。

万歳!この満たされないココロ!

ところがどっこい――ええ、そうです、またしても、ところがどっこい、なのです。我々人類は、今、さらに大きな選択の自由を手にしている。選択の自由というよりも、むしろ選択の義務である。それをまさに今、一刻も早く果たすことを迫られているのだ――論文の結びを、ミハシ教授はこのように書き出しています。つづきは、ぜひ、教授のウェブサイトから、当該論文をご覧ください→https://www.labo_jmhsh_prof/essays/why_cant_we_choose

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2015年6月26日 (金)

架空・お悩み相談室123『以前エイクタック島で幸せに……』

【お悩み】
一昨日から「自分は以前エイクタック島で幸せに暮らしていた」という考えが急に浮かぶようになったのですが、エイクタック島とはなんなのか、幸せな暮らしってどういうことなのか全然思い当たりません。エイクタック島ってなんなんでしょうか? というか、この考えはどこから来たんでしょうか?(東京都/たかしなさんのお悩み)

【お答え】
世にインスピレーション、啓示ということがございます。inspireということばを私は10代の初め、英語の先生から、創造主である神が人間を作ったとき、土の人型に息を吹き込むことによって生命を宿された、その、神の息吹のことを言うのだと教わりました。インスピレーションとはそのようなもの、信仰をもつ人であれば神が息を吹きこんだのだと考えるのかもしれません。あるいは、無神論者であれば、しょせん自分が考えたこと、脳内物質の影響か神経系統の雑音のようなものだろうと考えるのかもしれません。どちらも似たようなものだと思います。謎の考えがどこから来たのか、それは生命の起源を考えることと同じです。創造主のような超越的な存在が、計画と意図をもってこの世界に生命を作ったのだと考えるか、おびただしく重なり合った偶然の、単なる結果にすぎないと考えるか、その違いが本当に、私たち人間にわかるでしょうか。わからないものは、どちらでも同じだと考えるのが私は個人的に好きです。どこから来たのでもいいではありませんか。問題は、その中身です。どう受け取るかです。

インスピレーションがわいたとき、ひとは誰しも、その意味を考えます。目が覚めても鮮明に記憶に残る夢を見た時などもそうです。なにか運命の筋書きがそこに示されているのではないか、来るべき不運を避けるため、あるいは僥倖を迎え入れるため、今、ここで方向転換をすべきだという知らせではないだろうか?

ことにその中に地名や人名などの固有名詞が含まれている時、人はメッセージをことさら具体的に感じ、その地を訪うべきではないか、その人を探し出すべきではないか、そうしなければ恐ろしい目に合うのではないか、素晴らしい幸運を逃すのではないかと恐れます。

インスピレーションというのは、イメージ、概念がそのまま右脳に与えられる(または生ずる)ものです。人間はごく少数の例外を除き、イメージ(概念)は言語化したのちに(あるいは言語化する過程の中で)認知する生き物なので、左脳による翻訳を介さなければ、悲しいかな、何らかのインスピレーションがわいたこと自体を感じないほどに鈍感なのです。ここに落とし穴があります。右脳という自由な神秘主義者の抱いたイメージを、左脳という実直な経験主義者が翻訳するのですから、たいていの閃きは言語化されたとき、ありふれたもの、陳腐なものにされてしまったり、あらぬ方向にずれて、ちんぷんかんぷんなメッセージにされてしまいがちです。

「エイクタック島」のように、聞いたことがないにもかかわらず、調べてみると実在する固有名詞の場合はことに厄介です。本当にそれはエイクタック島なのかもしれません、その可能性は捨てがたいです。エイクタック島へ行けば、真の幸福を思い出すことができ、あなたはついに完成された幸福を手に入れることができるのかもしれません。たしかにそうです。ありえます。試してごらんになる価値は間違いなくあるはずです。

しかし、こういう可能性もあります。言語化される以前の右脳のイメージを左脳がダイレクトに受け取った際に、その豊かさ、ダイナミックさに動揺するあまり、かつて一度か二度、目にしたか、耳にしたことのあるエイクタック島、という単語にあわてて置き換えてしまったのかもしれないということです。いってみれば誤変換、誤訳です。その場合、エイクタック島という実在の島をたとえば、このようなサイトこのようなブログを開いて学んでみても、あなたとの関連をみいだすことはできず、はるばる島を訪ねたところで、刺激的な旅行という以上の得るものはないかもしれません(そうだとしても、試みる価値は大いにあるでしょうが)。あなたの運命を左右するメッセージは、単純に「えいくたっくとう」という音、あるいはエイクタック島という字面を問題にしなければ受け取れない、という可能性もあります。そのあたりはご自身でよく検討を重ねていただくほかはないわけです。

というわけで、ここまででお答えを終わりにする賢明なのではありますが、今回ばかりははいささか分をわきまえず、踏み込んだ考えを、あえて申し上げたいと思います。実は私としては(あくまでも単なる直感で申し上げるだけのことなのですが)、どうも、後者の可能性が高い気がするのです。実は、Aiktak Islandという文字にひっかかりました。何を隠そう、見た瞬間、「会いたい」と読めたのです。「会いたいランド」。何かに似ています。そうだ、あの名作映画『ナビィの恋』で平良とみさん演じるチャーミングな〈おばあ〉が船に乗って旅立っていった「愛してるランド」を思い出します。おばあに去られた後の〈おじい〉の淡々としたありさまがこれまた魅力的でした。あの名演を見せてくれた登川誠仁さんも亡くなりましたね。

話がそれました。Aiktak Islandがアイルランドの誤変換だと、ついてはアイルランド旅行をなさるようにと提案したいのではありません(いやはや!なんのための脱線でしょう!)。「エイクタック島」が意味しているのは、すばり「会いたい」ではなかろうかということです。会いたい人があるのではないかという。会いたい人に、会える場所があるのではないか。そこへ行かなくてはならない。いえそうした場所を、自ら創り出さねばならないのかもしれません。

人生は短い。「また会おうね」「近いうちにぜひ」なんて言い交した相手のうち、生きている間に実際に会えるのはどれくらいでしょう?

これもまた私の想像にすぎませんが、あなたはわりに社交的なタイプではありませんか? 多くの人に「また近いうちにぜひ」と感じよくにこやかに言っては、その実、会わないままに過ごしてしまうような? もとからそういうタイプであったわけではなく、以前は「また会おうね」と言い合った相手とは必ず、互いに忘れないうちに再会し、楽しく豊かな時を過ごし、人生を日々楽しんでいたタイプなのでは? 年を経るにつれ「また会いましょう」がいつしか社交辞令になり、抵抗なくさらさらと春の小川のように流れるようになると同時に、人生の残り時間もさらさらと流れ落ちて、気づくと今では、過ぎた時間よりこれからの時間のほうがどう見ても少なくなってきています。それなのに「また会いましょう」リストは以前にもまして長くなっていく一方の今日この頃、あなたは、おそらくは死の水際、あなたを悩ませるに違いない悔恨を、今なら避けることができるのにと憂えておられるのではないのでしょうか。ああ、なぜでしょう、私には、そのように感じられてなりません。

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2015年6月24日 (水)

架空・お悩み相談室122『私にやる気をください』

【お悩み】
学生時代ずっと体育会系だったのもあり、身体を動かすことがすきです。
本当は社会人になったいまも、運動したい!気持ちいい汗をたくさんかきたい!のですが、仕事柄なかなか忙しく、夜は遅くにくたくたで帰るので、とてもそこからランニング…とかもとてもではないけれどできないし、朝は朝でとにかく寝たい(しかもけっこう朝も早いんです、うちの会社…)ので朝から…というのも難しい。
仕事で読まなければいけない本も山ほどあり、ついそちらに手が伸びてしまいます。
この忙しいというのは、言い訳にしているだけなのでしょうか。
いや、言い訳にしているんだろうなあ。私にやる気をください。(京都府/ミッキーさんのお悩み)

【お答え】
昔むかし、ある娘が、村一番の美しい男に恋をした。男はつむじからつま先まで一点の非の打ちどころもなく美しく、少年時代は神童と呼ばれ、都から王の使いがやってきて、小姓として召し抱えられたこともあったのだが、3ヶ月と経たないうちに戻されてきたのは、男の完膚なきまでの無気力、やる気のなさのためであった。
 
男は――当時は少年であったが――徹頭徹尾、やる気がなかった。牛車に乗せられ、都へ向かう道中、生まれて初めて山を越え、海を見、生の魚を供され、船の上では恐るべき嵐にも遭った。使いの者はその都度、「ご覧、この見事な景色……」だの「坊や、これが海というものだよ」だの「うまいだろう、どうだい、刺身というものは」だの「しっかりと捕まっておれ、決して手を離すなよ」だのと声をかけてやったが、少年は何を言っても「はぁ」と答えるのみで、その美しい瞳が新たな光を放つこともなく、しかし曇ることもなく、ただただ美のほかには何も見出すことができなかった。実際のところ、少年は木の葉のように揺れる船の上で、捕まっておれと言われた柱から手を離すことはなかったのだが、その手にはどう見ても命がけの力はこもっておらず、いつなんどき波にさらわれてもおかしくない様子だったので、使いの者は、王への忠誠心の強さから少年の体を綱でしっかりと彼自身につなぎ、それを柱に縛り、そのうえで少年の体を抱きかかえておったので、少年が嵐をかいくぐって都へたどりついたのは、少年が生きようとしたからではなかった。3ヶ月の間、少年はただ従順であり、輝くばかりの美でありながら、小姓としての働きは何一つなすことがなかった。何を言われても「はぁ」と答えるだけで、しなやかな身体はまるで鉛の像のように動かなかった。村へ帰ってきた時も、少年は懐かしさのかけらも見せず、挫折感をあらわすこともなく、ひとつの季節を村から離れて過ごしたことの、なんの痕跡も残ってはいなかったので、村人も、少年の家の者も、かれが戻った日の夜には、かれがいなかった日々のことを何にも思い出すことができなかった。かれがいることも、いないことも、村にとっては同じだったのだ。
 
年月が無為に過ぎて、男は美しい青年となった。鉛の像のような美はいまだ健在であった。なにもやる気がないのに、瞳はまだ美であったし、髪も肌もつやつやとしていた。よそ者が村に来て彼に目を止めることはあったが、村では男は、美しいが何の役にも立たない蝶々のような存在にすぎず、父母がかれの行く末を思ってわずかに心をいためることがあるほかは、誰の目にもとまることはなかった。働き者ばかりのその村で、純粋な美を愛でることにいささかなりとも価値を見出すものは、誰一人としてなかったのである。唯一、その娘を除いては。
 
娘はやはり、村の者らしく働き者であった。人一倍頭もよく、器量よしで、歌や踊りも巧みであり、つまりはなんでもできる娘であった。草刈りにしても、魚釣りにしても、ほかの娘の半分の時間でしごとを済ませることができた。親兄弟も健在であった。つまり娘には暇があったのである。美を鑑賞し、美に感応する暇が。
 
というわけで娘は、多少なりとも心に余裕のあるものなら誰しもがそうならずにはいられないようにして、男に恋をしたのである。17才の初夏のある日のことであった。娘は男をよく知っていた。幼馴染であった。何もしないこと、何のやる気もないことを知っていた。しかし、娘は生き生きとした女であった。恋をしたからには何もしないでおくことはできなかった。
 
秋、木の葉が色づき始めるころ、娘はひそかに山を越え、まじない師の婆さんを訪ねることにした。夏じゅう、何度も何度も川底に潜っては、ひとつ、ふたつと貯めた川真珠のとびきりの粒を28も携えて。
 
ばあさま、あたしの愛しい人に、どうでも良いからやる気を起こさせる術をお授けください。どのような悪巧みでも、どのような浅ましい欲でもかまいません、あの人がどんなことであれ、何かやろうとする姿を見るためなら、あたしはよろこんで、地獄へでも堕ちます。
 
娘のひたむきな言葉に、婆さんは濃紺色の溜息をついた。

あの若者のことならあたしも話に聞いている。あんたの思いもよくわかった。だがね、お嬢さん、やる気というものは、肚のうちから湧き上がってくるもの、地の底から高まってくるもの、春になれば顔を出す草の芽、木の芽と同じさ。そこに草の種が埋まり、実が転がっており、冬枯れの幹があるからこそ、春の光とあたたかい雨がその芽を吹きださせることができるのさ。なにもないところにいくら水をやり、肥をやり、日に当ててやったところで何も出はしないよ。

ばあさま、それならあの人はなぜ生きているのです。あの人がそこにいるではありませんか。あの人は光と水さえあれば芽を出す種ではないのですか、あたたかな季節を待つ木の実ではないのですか。

婆さんは黙って囲炉裏の灰をかきまぜ、かきまぜしながら何事かをゆっくりと考えた。

そうかもしれない。生きているからには、何かの種が身の内に孕まれていないわけはない。時が来るのを待つ木の実が、あの若者を生き延びさせているのであろう。でなければなにゆえに、あのような男がその齢を20近くも数えるまで、命を長らえさせているものか。瞳に宿る美がその証拠……さて、あの男が待っている光とは、水とは、時とはなんであろう……。
 
囲炉裏の灰は、燃える娘の心の火と、婆さんの溜息に染まって紫色に色づいた。
 
あんたの気持ちはわかるとも。言うことももっともだ。だが……それでもやはり同じことだろうよ。やる気は当人のものだ。他人におこさせることはできない。枯れた木は燃えたいというこころを持つからこそ、火種にすることができるのだ。あんたには、できないだろうよ、あの若者に、やる気をおこさせることは。
 
娘は碧く光る川真珠のような涙をぽろぽろとこぼした。
婆さんは28の川真珠をすべて娘に返してやり、にぎりめしと竹筒に入った苦いお茶を持たせてやった。

気を付けてお帰り。恋とは尊いものだ。よいものを見せてくれてありがとう。
 
娘は待った。男はまだ生きている。生きている限りはいつか芽を出す種を宿しているはずだ。わたしは待ち続けよう。何も求めない。何も働きかけない。ただ待っていよう。待っていることができる限りは、わたしも生きている。わたしは、それでいい。あの人のためなら地獄へ堕ちることさえしようと一度は思った身の上だ。娘は28の輝く川真珠を、ひと夏にひとつ、川にかえしながら、独り身を守り、薬師となって45の年まで生きて、その夏の終わりにぽっくりと死んだ。村じゅうが悲しみ、葬式に来るものは引きも切らなかった。
 
男のことは、誰も覚えていない。娘の葬式に、顔を見せたかどうかすら。

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2015年6月16日 (火)

架空・お悩み相談室121『長いこと恋人がいません』

【お悩み】
長いこと恋人がいません。どうしたら出会いがありますか?(真剣!)(埼玉県/HARUさんのお悩み)

【お答え】
お住まいは埼玉県とのこと。一般に埼玉というと、首都圏であり、人はたくさんいそうに思われますが、ひとくちに埼玉県と言ってもいろんなところがあるのでしょう、本格的に人里離れた地域というのがあるのかもしれず、本当に出会いの機会がない独り身の方というのはあるのかもしれません。あまり予断でものをいってはなりませんが、しかし、どうでしょう、お住まいの場所からそう遠出をせずとも、普段の生活の中でも、日々、たくさんの人々とすれ違っておられるのではありませんか。出会いというのは、どこにでもあるものです。ためしに、さまざまの夫婦や恋人たちのなれそめの物語をあれこれ聞いてごらんなさい。まさしく出会いのチャンスはどこに転がっているかわからない、道を歩いているだけでも、家から一歩出るだけで、いえ、もはや生きているだけで、ひょんなところに出会いはあり、しかも何度も訪れてくるものだということが、すぐに納得できるでしょう。
 
だいたいこの地球上には、この同じ時代を何十億という人が共に生きており、日々、一瞬ごとに人々は移動しているのです。地上の空間だけでなく、現代の私たちにはサイバー空間があります。いったい出会いのチャンスはどれほどに与えられていると思われますか。飛行機もなく自動車もなく、旅行会社もなく、そもそも移動の自由すらなく、インターネットもなかった時代でさえ、恋愛はありました。恋愛など許されていない時代にもあったのです。その時代の人々に比べ、現代の私たちの、しかもいちおうは平和を享受しているといっていいこの社会に暮らす私たちの誰に、出会いがないなどということがありうるでしょうか?
 
おわかりですね。恋人がほしいのにみつからないあなたに欠けているものは、断じて出会いなどではありません。覚悟です。

昨日電車で前に立ったあの人がそうです、コンビニのドアを押さえていてくれたあの人もそうですと、具体的に教えて差し上げられないのが残念ですが、出会いはいつも、降るように与えられています。矢をつがえたキューピッドがうるさい蚊のごとくそこらじゅうを飛び回っており、すきあらばと機会を狙っているのにもかかわらず、その矢を放たせないのはあなたなのです。なぜならば、あなたには、恋する覚悟ができていないからです。
 
いまだ訪れぬご自身の恋を思う心を少しだけわきに置き、恋というものの一般的な性質をとくと考えてごらんなさい。古今東西、一生のうち一度しか恋をせず、その恋を実らせ、その相手と死ぬまで連れ添う人というのはごくごく限られた少数派であることは自明ではないでしょうか。つまり、恋というもの、その大半が、失恋をもたらすのです。全地球上で人類始まって以来生まれた恋を能う限りすべてカウントし、そのうち失恋に終わらなかったものはどのくらいあるかを調べた学者がいます。20世紀末ごろの数字であって、現在は若干の変動があるかもしれませんが、フィンランドの天才的文化人類学者であったワレト・パルトラミ博士が行った調査(Wareto Partlami 1995)によれば、驚くなかれ、時代・地域をとわず記録によって確認できる恋の顛末を厳密に調査した限りにおいて、失恋に終わらなかったと証明できる恋はわずかに0.000023パーセントにしかすぎません。なんと天文学的な低率! 恋とは、9割9分、失恋に終わるもの、恋とはつまり、失恋に他ならないのです。これは恋の定義と言うべきものであって、動かすことはできません。

落ち着いて考えてみましょう。恋たるものが、ごくごくわずかの、問題なく無視しうるほど低確率にしか起こりえない例外を除き、すべて失恋をもたらすとした場合、人が恋をしたい、恋をしようと心を決めるとき、その人の内面で、実際に行われているのは、どのような決意でしょう? そこで生まれているものが失恋をしたい、失恋をしようという覚悟であると考えるのが妥当ではないでしょうか? このように言われれば、誰しも恋の楽しみに水を差され、夢見る心を台無しにされて不快千万に感じるであろうことは承知の上です。事実、この説を世にだそうとしたパルトラミ博士は、それが純粋に学術的な場での発表にとどまっており、精査をつくされたデータの信ぴょう性は誰しも認めるところでありながらも、恋と失恋は同義である、恋をするとは失恋することであるという、身も蓋もない論理的な道筋が、専門家たちをすら悲しみと嫌悪感に打ち震えさせたとみえて、発表の途中で退席するものが続出し、博士が発表の結論部分を申し述べようとしたとき、広い会場に残っていたのは、ただ、手話通訳者と速記者、そして彼自身の三人のみであって、なおかつ、その二人の同席者も、仕事に使うべき両の手を、自らの両耳につっこむことに忙しく、なんら職務を果たしていなかったということは、なかば伝説のように伝えられております。ああ、真実は耳に痛い。しかし、真実を見極めないものは、何をもなすことができません。

ご自身の心を澄ませ、本当に私は恋がしたいのだろうか、本当に恋人がほしいと思っているのだろうかと考えてごらんなさい。そしてあなたの思う恋が、本当に恋の名にふさわしいのかどうかを考えてごらんなさい。星の数ほど準備された出会いが、まさに今この瞬間も、あなたを訪れていること、あなたのために千の矢を矢筒に備えたキューピッドが、あなたの周りを飛び回っていることに、あなたは即座に気づかれることでしょう。

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2015年6月15日 (月)

架空・お悩み相談室120『デブから脱出したい』

【お悩み】
喰いしん坊でデブから脱出したい(東京都/ヒーリンさんのお悩み)

【お答え】
なんというシンプルかつ複雑な、奥深いお悩みでしょう。わたしはこのお悩みを頂戴した瞬間から、人間の根源に巣食う、考えても考えてもたどりつけない、逃げ水のような真実をあくまで求める旅に今こそ出立しなくてはならないと感じ、生きてきてこれまで、ただの一度も迫られたことのない、とてつもない激しい焦燥感に夜も眠れず三度の食事ものどを通らない日々を過ごしてまいりました。

正直に申し上げるしかございません。わたしが今、こうして机に向かい、お答えを書いているという事実こそ、わたしがいまだその旅を始めていないというまごうかたなき証でございます。お悩みを頂戴したからには誠心誠意お答えせねばならぬ、お答えするためには旅に出なくてはならぬ、しかし、旅に出れば必ず真実を探り当てることができるとは限らない、いえ、むしろ、求める真実にたどり着く前にわたしの命の刻限がやってくる可能性のほうが大きいことは、火を見るよりも明らかといっていいのであります。このささやかな相談室に、現在、片手の指では間に合わない数のお悩みが寄せられ、わたしの愚答を待っている事実をかんがみるに、今、ここで、保証のない旅に出ることが、わたしのようなものに許されているのか否か? わたしのこの数か月の煩悶は、むしろそのことにありました。

自らに対する深い失望、尽きることのない嘆きとともにわたしがした決断は、真実の答えを今の時点で見つけることができないながら、帰ってこられるあてのない旅に出るよりは、今のどうしようもないわたし自身のありさまを正直に告白し、それをもってお悩みへの、ひとまずのお答えとしようということであります。

まこと人間とは不可思議なものです。お悩みのシンプルな一文に込められた何重もの謎、出口のない迷路のようにからみあったいくつもの因果関係を、いったいどれほどの方々が心の痛みとともに共感されることでしょう。
その一本一本の道筋を丁寧にひもといていきますと、すなわち、「自分とはなんぞや」という謎に行きつきます。身体という入れ物におしこめられた、あるいは身体という入れ物を持て余す魂から日ごとしたたりおちる悲しみの涙といったようなものが、このお悩みから感じられます。それが地球上のあらゆる人々のともに苦しむ悩みでなくて何でありましょうか!

現代を生きる多くの人が、自分の身体について、大きすぎ、小さすぎ、太すぎ、細すぎ、そのほかさまざまな違和感を覚えています。自分自身の大きさと、実際に測定できる身体の大きさ、あるいは鏡や他人の目に映る身体の大きさが、まったく違和感なくぴったりと一致していると公言できる人は、おそらくとてもとても少ないでしょう。比較的多くの人が豊かな生活を享受している社会においては、内的に感じられる自分自身の大きさよりも、外的に現存して客観的に観察されうる身体が横幅において大きすぎる、つまり「太りすぎ」だと感じている人が多いのが特徴のようです。その原因を、お悩みの一文は端的に「喰いしん坊」であることと示されているようですが、さて、それは「デブ」の真の原因でしょうか? いえ、そもそも、ご自身は本当に「喰いしん坊」かつ「デブ」なのでしょうか? 
 
人の適切なサイズとは、いったいいかにして決まるものでしょうか。身体の、物理的に測定できるサイズと、人が自分で感じるサイズ感がこれほどに食い違うのはなぜでしょうか。つまり問題は、魂の大きさはいかにして計るべきかということです。魂の入れ物たる身体のサイズはほとんど常に魂自身のサイズ感に合わない。なぜわたしたちは、「現にいまこのようである身体」と「本来こうあるべき(魂のサイズに合った)身体」のふたつを二つながら関知することができるのでしょう。なぜその二つが食い違い、このように人を苦しめることが可能なのでしょうか?

いまだ遠い旅路に出立していない未熟者のわたしが、現時点で胸に抱いている仮説、ささやかな考えはこうです。「自分が適切なサイズよりも大きすぎる」と感じている方々の多くが、実は、ご自身のサイズを過小評価しておられるのではないか? つまり本来の自分は肉体的な自分よりも小さいと感じておられること、自らを「デブ」と思っておられることこそが、誤認なのであって、事実はその逆なのではないか? そのようなお悩みをお持ちの方は、身体や食習慣を矯正するのではなく、今あるご自身の身体をこそ確かな根拠とし、ご自身の魂の大きさは、ご自身が把握されている以上に大きく、重量のあるものなのではないかと考え直すことを試みてみられるほうがよろしいのではないか? あなたは「喰いしん坊」などでは決してなく、豊かな大きさをもつべき自分の魂の命じるままに、その必要とする食物を摂取しているだけではないのでしょうか? 今のその身体の大きさ、その旺盛なる食欲こそ、魂のよってきたる永遠の世界からもたらされたあなた自身の使命が、どれほど大きく、重みをもつものであるのかの証拠ではないか?

同じ悩みに心を砕く世の多くの方々が、ご自身の魂と、その使命の大きさ、重さをしっかりと受け止め、真のしあわせに向かって足を踏み出される日を祈りつつ、わたし自身にも同じ問いを投げかけ、さきほどから脳裏を横切ってはわたしを悩ませている、戸棚にしまい込まれたこってりチョコレートケーキをば、本日のお八つとして堪能することにいたしたいと存じます。

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2015年5月21日 (木)

架空・お悩み相談室119『若い人たちが新聞を読みません』

【お悩み】
福島県で新聞拡張の営業をしています。若い人たち(20代~30代前半)が新聞を読みません。ネットやテレビラジオで足りると言います。どうしたらよいでしょう。(福島県/ロクさんのお悩み)

【お答え】
時代の変遷というものでしょうか。若い人が新聞を読まない。テレビラジオに加え、ネットの広がりによって、情報に対価を支払うという感覚が薄れていることもあるでしょうし、新聞だけでなく雑誌や書籍でもおきてきている紙媒体から電子媒体への移行もありましょう。若い世代の住環境では、日々、相当量の紙が家の中に入ってくることに耐えきれないという実際的な障壁があるかもしれませんし、もっと根本的には、その世代の経済状況がそもそも悪化しているのかも。いえいえ、あるいは、新聞を読みたい人の割合は実はそんなに変わっていなくて、母体となる若年人口自体が減っているのかも。
何が困難の直接の原因であるにしても、若者の新聞離れは、社会全体を覆う大きな流れの一兆候であるには違いなく、一営業部員の努力で抜本的に解決するような類のことではありませんね。
自分の手の届かないどこかから押し寄せてくる大きな流れが、自分自身の暮らしを脅かすとき、人はどのように対処すべきか、どのようにふるまうことが可能なのかというのが、つまりは、お悩みの本質であり、そのように考えるとき、これは21世紀の今に限らず、人類誕生以来現在に至るまで、常に大きな流れに翻弄されつづけてきた人々すべてと分かち合える、人類普遍の悩み事であることが明らかになるのです。
そこでわたしたちは、今回も、古い物語をひもとくことにいたしましょう。

◆   ◆

賢く敬虔な修道僧の一人が、ある日、院長に思い詰めた憂い顔でこう申し上げた。

敬愛する院長さま、このごろ世には印刷機というものがあらわれ、大はやりをいたしております。わたくしどもの聖なる勤めであります聖なる書の写しというものが、いずれ顧みられることなく消えてゆくであろうと考えますと、いてもたってもおられぬ心もちがいたします。院長さまに、わたくしの浅薄な考えを申し述べることは許されましょうか。

もちろんだとも。そなたの思うところを何なりと聞かせておくれ。

僧はいささかの昂ぶりに頬をほんのり紅潮させながら述べた。

人々が機械による写しを持つようになることは悪いことではなく、神のおぼしめしでございましょうが、わたくしども敬虔な僧が、一文字ごとに魂を込めたる写本は、いかに安価な写しが世に出回ろうとも、一段も二段も高く尊い、得難いものと存じます。しかし、人々にはその価値がわからないかもしれぬ。そこで、わたくしどもの勤めが聖なるもの、尊いものであるというしるしに、わたくしは飾り文字のわざを究め、世界広しと言えども二冊と同じもののない、芸術品としての写本をこしらえることに勤めようと存じます。

いわば写本に芸術的付加価値を付け、世の安価なコピー製品に対抗しようというこの僧の考えに、院長は頷き、許しを与えた。

するとそばにいた別の僧が、これまた憂い顔の青ざめたまなざしをあげ、院長に発言の許しを求めた。

ブラザーのおっしゃっることももっともながら、わたくしは、民が印刷された聖なる書を持つことは、まさしく神の愛のあらわれであると思うのでございます。神のことばは神のことばでございます。ただことばのみで力をもつものです。美しい文字で飾ることもよきことでしょうが、度を過ぎれば、もはや慎むべき喜びとなるのではないかと……わたくしどもの勤めとは祈りでございます。聖なる文字を写すことが祈りであれば、托鉢し、畑を耕し、聖なる歌をうたうこともすべてが祈り。わたくしは、なんであれ、神の与えたもうた祈りの機会をひたすらに祈って暮らしとう存じます。

いわば世の流れに従い、手放すべきは手放し、本来の分を守りたいというこの僧の考えに、院長は頷き、許しを与えた。
 
また別の僧が、院長の許しを乞い、口を開いた。

わたくしは、ただ修道のあるべき道や、修道院の生き残り策という見方のみからこの印刷術の問題をみることは、やや偏った、いささか狭すぎる見方ではないかと思えてなりません。人の営みを機械がとってかわること、これは印刷術に限らず、あらゆる営みに対して起こってくるでありましょう。民が聖なることばを手にすることが確かに福音でありながら、いっぽうで、わたくしどもの仕事が奪われるようなことが、これからあらゆる、例外なく、あらゆる人の営みで起こるとしたら、いえ、確かに起こるに違いありません。農夫が鍬を手放し、折れた腰をまっすぐに伸ばすことができるなら、それは福音でありつつも同時に、かれの仕事を奪い、また鍬を作る鍛冶屋の仕事を奪うことになりましょう。洗濯女は洗濯板を腐らせ、仕立て屋は針を捨て、大工は鋸を錆びつかせ、馬車屋は馬を売りとばし、そのはてに何が起こるのか、わたくしには見当もつきませぬが、そのことを思いますと、胸騒ぎがしてなりません。わたくしどもはいかにしても生きていかれます。すでに神の前に投げ出した命なのですから。しかし、幼い子や老いた親を養う民はただ祈りによって弱いものを養うわけではございません。かれらはどうなりましょう。わたくしは、このことを深く考え、及ばずながらなにがしかの書物を著したいと存じます。

いわば社会の動きに疑問を投げかけ、警告を発したいというこの僧の考えに、院長は頷き、許しを与えた。

さらに、4人目の僧が重たげな口調で話し出した。

わたくしは、印刷術というものの噂を初めて耳にした時から、素晴らしい神の贈り物だと感じております。わたくしどもの仕事を奪うのではなく、仕事を与えるものではなかろうかと思うのです。わたくしは、より一層の節約に努めていつかは印刷機を買入れ、写本の技術を学んでまいったと同様に印刷術を学び、信徒の皆様や、学校に通う子どもたちのための、読めば心安らかになれるような、わかりやすい教えや聖なる方々の逸話を本にして出版することを、わたくしどもの新しい勤めとなすべく、励みたいと存じます。

いわば新技術をビジネスチャンスととらえ、時を逸することなく参入したいとするこの僧の考えに、院長は頷き、許しを与えたあとで、それまでずっと悲しげな顔で沈黙を守っていた見習い僧に目を止められ、声をかけた。

見習い僧はこらえていた涙をこぼし、それを拭おうとして、かえって泣きじゃくりながら院長に申し上げた。

院長さまは、皆様のお考えに何一つ反論をなさいません。何を申し上げても頷かれるばかり。わたくしは、お兄様たちのように自分の考えを述べることはおろか、考えを持つことさえできません。どうしてよいのかわからない。ただ悲しみがこみあげるばかりでございます。

院長はやさしくうなずき、見習い僧に微笑みかけた。

見習い僧は驚いて小さく叫んだ。

すると院長さまは、このようなわたくしをもお許しくださるのですか。

もちろんだとも。神の前にわたしたちは皆、迷える羊にすぎない。そなたもわたしも、ここで立派な考えを申し述べてくれた尊敬すべき兄弟たちも、明日のことは神の手にゆだねるだけなのだよ。

見習い僧の顔に、まるで雲の隙間にひばりが飛び込んでいくように素早く光が差した。天気雨のような涙をなおもこぼしながら、見習い僧は明るい顔を上げ、居並ぶ修道僧たちに微笑みかけた。修道僧たちのどの顔も、雨上りのひばりのようであった。

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2015年4月20日 (月)

架空・お悩み相談室118『エレキギターがヘタです』

【お悩み】
エレキギターが好きでたまらなく、練習もしているのに数十年、いまだ人に聞かせられないほどヘタです。あきらめるべきでしょうか。(東京都/ごんごんさんのお悩み)
 
【お答え】
ずばり、あきらめるべきです。人に聞かせるには、うまくなくてはならないという考えをです。ものすごくヘタなのに人前でやっている人はたくさんいます。聞くに堪えないというやつです。迷惑ですね。恥ずかしいですね。しかし、そのような人は昔から後を絶ちません。人の社会とは、古来、ヘタな演奏家を許し受け入れ、居場所を用意してきたのです。ここに人の営みの秘密があります。
 
しかも、驚くなかれ、音楽は、家で一人で練習しているよりも、人前で演奏するほうが、はるかに上達するものです。ヘタで当たり前の初心者の時からとっとと人前に立っていたら、この数十年の間に、あなたは熟達の演奏家になっていたに違いありません。残念です。しかし、あなたはまだ生きていて、まだエレキギターが好きでたまらなく、まだ練習する体力があるのですから、今からでも遅くはありません。というかむしろ、今のうちです。ただちにライブハウスを予約し、知り合いという知り合いに招待状を送り付けしましょう。
 
友だちは何人か減るかもしれません。でも、新しい友がそれに倍して得られることもまた、間違いありません。
 
人が演奏家を見るためにわざわざ街へ出ていくのは、単にうまい演奏を聴くためとは限りません。うまい演奏をする人ならいくらもいる、あるいは、うまい演奏なら録音されたもののほうが確実だ、ということだってできます。人が演奏家を見るのには、その人が演奏をして楽しんでいる、喜んでいるのをその場で見、その時間を共有することがうれしいということだってあるのです。うまい演奏は当然、文句なく素晴らしい、けれど、ヘタな演奏もまた、素晴らしいのです。そこにこそ、人間社会の営みの、根本的な構造があります。つまり、人々はみなそれぞれの才能を持ち、使命を持ち、知らず知らずのうちにその天命を生きているということ。そうしている限り、人の社会は続いていくということです。
 
ヘタなのに、こんなにも好きなのか、こんなにも楽器をさわっていてしあわせなのか、と感心させるだけの情熱があれば、どのようなうまい演奏家よりも、あなたのほうを見たがる人は必ずいるでしょう。そして、お悩みを見る限り、あなたにはその情熱をじゅうぶんに持ち合わせているはずです。人が人を喜ばせるのは、なにをさしおいても、その人自身の喜びなのです。好きでたまらず数十年の研鑽を重ねてきたあなたのエレキギターへの尽きない愛こそ、人々に分け与える価値のあるものであり、また、与えれば与えるほど、与えられるものでもあるのです。恐れることはありません。あなただけに与えられた人生の喜びを人々と分かち合いつつ、存分に謳歌してください。
 
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2015年4月 9日 (木)

架空・お悩み相談室117『その瞬間瞬間を生きていたいと思います』

【お悩み】
その瞬間瞬間を生きていたいと思うので、職場の先輩に「今後この会社で何やりたい?」と先のことを訊かれると「今与えられたことをやるのみなので特にありません」と正直に答えると、やる気がなさそうに見えるのではと思います。この場合、どう答えるべきでしょうか?(東京都/たんぽぽろさんのお悩み)
 
【お答え】
生物にはそれぞれに感知できるもの、感知できないものがあります。人が感知できない光の波長や色を感じ取る生き物、超音波を発し、聞きとる生き物、人に感じられない臭いをかぎわける生き物などの例はよく知られていますね。同じように、時間というものに関しても、生き物によって、感知できる時間の幅はおおむね決まっています。
 
人は、植物を別とすれば、この世に生きとし生けるものの中で、相当に長い寿命を有しています。胎内に宿ってからこの世に出てくるまでも、排せつや歩行を自分でできるようになるのも、自分の糧を自分で得られるようになるのも、次世代を作るまで成長するのも、死ぬのも、何もかもが遅い。人間とは、非常にのろまな生き物であって、時間についても、絶望的なまでに大雑把な感覚しか持ちあわせていません。
 
しかし、人が「生きている」ということを十全に生きようとするとき、この時間の感覚をとぎすませ、「いま、この瞬間」を捕えようと努力することは非常に大きな意味をもちます。古来から、真実を求めてやまない人々はほとんど例外なく、「いま、この瞬間」を感知する能力を求めて、様々に修業を行ってきました。
 
これからお話するのは、そのような人々のうちで、最も真実に近づいたとして敬われてきた、ある導師とその愛弟子の逸話です。
 
   ◆    ◆
 
弟子サッヴァーナが師に従い始めて間もない頃のこと。早朝の清めを行っていた弟子は、師が端然と座り、瞑目していることに気づいた。暗がりの中で師の思いを邪魔せぬよう、そっと離れようとしたところ、師が瞑目したまま「おはよう」とおっしゃたので、サッヴァーナは慌てて「おはようございます」と答え、その場にかしこまったが師は何も言わない。しばらく待って、サッヴァーナはその場をしずかに辞し、朝の務めに戻った。
 
次の朝、師よりも早く起きたつもりのサッヴァーナが早朝の清めに向かうと、師は昨日と寸分たがわぬ姿で端然と座っておられる。サッヴァーナは先に挨拶をするべきか否かと迷っているうちに師の「おはよう」をきき、慌てて挨拶を返し、その後は昨朝と同じようになった。
 
その夜、サッヴァーナは一睡もせず、師が床につかれ、眠りに落ちたことをかすかな音で確かめてから、そっと起きだした。しずかな心持ちで早朝の清めを行っていると、師が同じ場所に瞑目しておられるではないか。サッヴァーナは驚いたが、ぐっとこらえ、「おはようございます」と声をかけた。
 
師は眼を開かれ、サッヴァーナを悲しげに見た。
 
その眼の光は、深夜の暗がりの中で、満月よりも明るく、三日月よりもするどく、サッヴァーナを射抜いたという。
 
「サッヴァーナよ。お前がその『お』の音を口にし始めてから、言い終わるまでの間に、わたしは七十二の七十二乗回の生と死を生きた」
 
サッヴァーナは激しく驚き、次の瞬間、師の教えを体得し、ひとつの瞬間を七十二に、七十二の刹那のそれぞれをさらに七十二にわけたその一つ一つのうちに、あらゆる体験を含む人生を七十二回生きることができるようになったといわれている。
 
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2015年4月 1日 (水)

架空・お悩み相談室124からいらしてくださったあなたへ

ジュンヤ・ミハシ教授の論文を読むべく、ほらふき道場のリンクをクリックしてくださったあなたへ!!!

ありがとうございます!!!

美味しいお茶をいれますので、どうぞゆっくりしていらしてください。

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2015年3月23日 (月)

架空・お悩み相談室116『思考を断ち切る方法』

【お悩み】
私は人とのコミュニケーションで「この人はこうしてほしいのかな?」「こうしたら喜ぶかな?」と考えてしまい、とてもつかれます。この思考をたちきる方法はないのでしょうか?(神奈川県/了古さんのお悩み)
 
【お答え】
ありますとも!
およそこの世のつながるものに、「たちきる方法」のないものはありません。つながるものとは、一般的にいって、両端(または周囲)にカギ(フック)がついたもののことです。どのようなものが相手でも、カギをはずしてしまいさえすればいいのです。
 
もちろん、思考の場合は、いささか厄介ではあります。秋の草むらに入るとびっしりくっついてくる「ひっつき虫」といわれる植物の種くらい厄介、つまり、一気にたちきる術は、残念ながら「ない」と言わざるをえません。
 
ですが、たとえどんなにしつこい、そして数の多い「ひっつき虫」であっても、ひとつひとつ指先でつまみ、根気よく除去すればいつかは取りきることができるように、際限なくつながるかに見える思考も、ひとつひとつ、しぶとく努力すればいつかはたちきることができるのです。
 
具体的には、こうです。たちきりたい考えが頭に浮かんだら、全ての考えに、すかさず(ここがコツ!)「~~は考えないで、●●を考える」と続けるのです。考えの後ろにつづいてくるカギ(フック)を、形成寸前に無効化することが技術ですから、肝心なのはタイミングです。よろしいですか、「すかさず」続けるのです。「すかさず」です。
かわりに当てがう考えは、もとの考えと無関係でありさえすればなんでも構いませんが、ある程度の魅力を備えたものが望ましいでしょう。
 
「この人はこうしてほしいのかな?は考えないで、今夜のおかずは何を食べたらしあわせかな?を考える」
 
「あの人はこうしたら喜ぶかな?は考えないで、高校生のころ、どうして数学の授業ではあんなに熟睡できたのかな?を考える」
 
いかがです。ちっぽけなひっつき虫をひとつ、取るくらいに簡単なことではありませんか? おまけに、こういうことを真面目に考えていれば、毎日毎食、食べたらしあわせになれること間違いなしのおかずを食べ、毎晩熟睡できるのですから、知らぬ間に、疲れ知らずの身体になり、幾倍もしあわせになれること間違いなしです。
 
ちなみに、このように思考のカギを無効化することを続けてまいりますと、ちぎれたカギが、頭の隅にたくさんたまります。きれいなものをより分けて、取っておかれるとよろしい。家の片づけに、壁のフックがまことに役立つように、頭の整理にも、このカギは非常に役立ちます。また、少し加工して鎖状につなぎますと、素敵なアクセサリになります。大事なあの方に差し上げれば、きっと喜んでいただけることでしょう。

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